2007年02月19日

下流志向

著者が一番問題にしているのは、「生活主体」や「労働主体」から「消費主体」になってしまったということである。消費主体は自分が必要と判断したものにはお金を支払うが、不要と判断すれば支払わない。「子どもたちは以後あらゆることについて、「それが何の役に立つんですか?それが私にどんな「いいこと」をもたらすんですか?」と訊ねるようになります。その答えが気に入れば「やる」し、気に入らなければ「やらない」。そういう採否を人生の早い時期に身体化してしまう。こうやって「等価交換する子どもたち」が誕生します。」
 では、なぜ子どもたちは消費主体化したのか。消費主体であるこどもたちは、どのように学校でふるまうのか。なぜそれが学力低下につながったり、階層低下に結びつくのか。
 「今の子どもたちと、今から三十年くらい前の子どもたちとの間のいちばん大きな違いは何かというと、それは社会関係から入ったか、消費から入ったかの違いだと思います。」「お金を使う人間として立ち現れる場合には、その人の年齢や識見や社会的能力などの属人的要素は基本的に誰もカウントしない。」「潤沢なおこづかいを手にして消費主体として市場に登場したとき、彼らが最初に感じたのは法外な全能感だったはずです。」「幼い子どもがこの快感を一度知ってしまったら、どんなことになるのかは想像に難くありません。子どもたちはそれからあと、どのような場面でも、まず「買い手」として名乗りを上げること、何よりもまず対面的な状況において自らを消費主体として位置づける方法を探すようになるでしょう。当然、学校でも子どもたちは、「教育サービスの買い手」というポジションを無意識のうちに先取しようとします。彼らはまるでオークションに参加した金満家たちのように、ふとこと手をして、教壇の教師をながめます。「で、キミは何を売る気なのかね。気に入ったら買わないでもないよ」」「そして、この幼い消費主体は「価値や有用性」が理解できない商品には当然「買う価値がない」と判断します。」そして、この消費主体は一見買う気がないような態度を示すことから始めます。それは「商取引の場では、買い手は商品の有用性(あるいは無用性)について熟知しているかのようにふるまい、「その商品には興味がない」という無関心を誇示することで取引を有利に進めることができると知っているからです。」しかも、「教師が差し出す教育的サービスを「そんなもの、要らない」と拒絶することは、これまで人類が営々として築いてきた知的構築物を一蹴するに等しい行為ですから全能感があって当然です。」「消費主体として出発した子どもたちは目の前に差し出されたものをつねに「商品」と見ます。そして、それを「値切ろう」とする。最小の貨幣で最大の商品を手に入れようとする。ふつうの商店で売っているものなら、貨幣をもってその代価に充てます。では、学校では何を代価に充てるのでしょう?」「それは不快です。」
 「例えば、五十分間授業を聴くという不快の対価として、そこで差し出される教育サービスが質・量ともに「見合わない」と判断すれば、「値切り」を行うことになります。仮に、その授業の価値が「十分間の集中」と等価であると判断されると、五十分間の授業のうち十分程度だけは教師に対して視線を向け、授業内容をノートに書く。そして、残りの四十分間の「不快」はこの教育サービスに対する対価としては「支払うべきではない」ものですから、その時間は、隣の席の生徒と私語をしたり、ゲームで遊んだり、マンガを読んだり、立ち歩いたり、あるいは居眠りをしたり、消費者である子どもたちにとって「不快でない」と見なされる行為に充当される。」「私語をするのは、「したいからしている」というより、「しなければならないからしている」のです。」
 したがって学校に「不快」という対価を支払うべき価値が十分にないとすると、次のような態度にならざるえない。「「無為」な人間に見えるように、できるだけだるそうな表情や発声をし、制服の着方を微妙に崩し、「無為な人間」であることをショウオフできるような記号的ふるまいの数々をテレビや雑誌から熱心に学習し、それを模倣し、より「無為」に見えるように様々な改善を加えることさえ厭いません。」「これを「無為」といえるでしょうか?むしろ「勤勉」と呼ぶべきでしょう。」「彼らが全力で抗しているのは、彼らを「学び」へ誘う流れです。「成長」へと押し流そうとする圧力です。」こうして、勉強しないことを誇らしく感じる感性は生み出されたというのである。「かりにひとく社会的に有用であると認知されているものであったとしても、「オレ的に見て」有用性が確証されなければ、あっさりと棄却される。そのような手荒な価値づけがあらゆる場面で行われています。それが教育の崩壊のいちばん根本にあることだと思います。」筆者は、学ぶ前からその有用性が子どもたちにわかるようなものは少ないことを指摘している。言語の習得などが例に挙がっている。たしかに赤ちゃんに言語を習得する有用性はわからないだろう。それにしても、「私」の判断の正しさを証明してくれるものは何なのだろうか。筆者はそれが、官民一体となって喧伝された「自己決定・自己責任論」であったといいます。その結果が、「捨て値で未来を売り払う子どもたちを大量に生み出している」のだというのです。学校を例にしてみれば、「学ばないことから生じるリスクは自分で引き受ける」ことを前提に、学ぶ価値があるかどうかを判断することが許されるという構図です。自己決定は、そうあるべきものとして推奨されている。そして、そうした中、実際に学ぶ・学ばないを自己決定する生徒が現れてきたのである。そして、「四則計算ができない、アルファベットが読めない、漢字が読めない、自分の興味のある領域についてのトリヴィアルな知識はあるけれども、興味がないことは何も知らない。意味の「虫喰い」状態の世界を特に不快とも思わずに生きている。そうやって彼らは階層下降のリスクをきっぱりと引き受けているわけです。」



下流社会の次は下流志向ですか
こういう本を出せば売れるからって次々出ますね
社会主体から消費主体という考え方は面白いですね
ただ、学校教育に当てはめた部分はどうかと・・
役に立たない授業なら聞く気がなくなるのも普通ですし
先生の技量のなさだと思いますが
posted by 前田 at 09:59| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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